市河恭齋・万菴・得庵 
   

家系図

市河 万菴 
天保9年(1838)3月生〜明治40年(1907)11月歿
 幕末・明治の書家。市河米庵の実子、三喜の父。名は三兼、通称は昇六、字は叔並。幕府に仕え、江川太郎左衛門、高島秋帆に洋式砲術を学び、鉄砲方となる。父の業を承け、篆隷に長じた。また篆刻・点茶・弾琴も能くした。維新後は大蔵省に勤め、ロンドンで新製したわが国紙幣の文字を書いた。

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市河 得庵
天保5年(1834)生〜大正9年(1920)11月22日歿
 市河遂庵の子。明治43年7月発刊の『開港五十年紀念 横浜成功名誉鑑』によれば、名は三鼎、字は鉉吉、通称を周吾・小右衛門、号を得庵と称し、別号に小山林堂・潤暉軒などがある。天保5年江戸下谷に生まれる。文久2年(1862) 加賀藩主前田斉泰に仕えた。明治4年廃藩置県によって東京に帰り、明治7年徴されて大蔵省の官吏となる。4歳年少の万庵と同僚となった。明治8年命によって家蔵の書画を天覧に供し、翌9年これらの書画法帖百五十種を帝室に献納した。明治23年大蔵省を辞して、四国・九州・北陸各地を巡遊。明治25年東京から横浜・野毛に居を移し、のち中区北方町492番に転居。書道を教授して悠々自適の晩年を送った。
 引用の大冊は当時の横浜における各界紳士録で、書家では「市河得庵翁、三好芳石翁、原田東皐君」の三名が載せられている。得庵の肖像は面長で禿頭、いかにも品のよさそうな慈顔温容の老人である。併載の書は「丹心答聖明 七十六翁得庵」とあり、肉太の院体風の隷書幅である。
 「八十翁得庵」の下に、朱文の「河三鼎」、白文の「字鉉吉」の落款印が押されている。

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市河 恭齋 
寛政8年(1796)生〜天保4年6月27日(新暦 1833年8月12日)歿
 幕末・明治の書家・篆刻家。讃岐(香川県)の人で、名は三千、字は桃翁、通称は三千太郎、号を恭齋・古学庵・学古庵などと称した。高芙蓉の高弟である篆刻家稲毛屋山の長男で、備中庭瀬藩に仕えた。
 市河米庵の門に入って書を学び、米庵にその才を見込まれ継嗣がなかったので請われて最初の養子となり、市河姓を名乗った。
性格は温和で人に好かれた。書はとりわけ小楷に優れ、小米と称された。詩文をよくし、篆刻に巧みであった。江戸下谷に住んだ。38歳で夭折した。
 編著に『米庵先生百絶』がある。
 尚、恭齋が若死にしたため、米庵が次ぎに迎えた養子が遂庵。
 引首印は「古学庵」、「恭齋書」の下に、朱文下駄判の「三」「千」の落款印が押されている。

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